この日、「井の頭サーカス」の副団長の柏崎健は厄日だった。
 朝、押し入れに入っていた靴下は穴が空いているものしかなかったし、自動販売機であたたかいコーヒーを押すと、冷えきったジンジャーエールが出てきたし、トラックの荷台に掛けられた白いシートを開けると、大きな茶色い熊がいた。

カクマクマ第八話 カクマクマ、働く
第8話 カクマクマ、働く

すぐに閉めた。もう一回開けた。熊がいる、目が合った、間違いない、よし。閉めた。
 
 遠くにある、人通りの少ない道路から、工業用のトラックが走っている音が聞こえた。何もない、誰もいない空き地。枯れた雑草だけがふんわりと風に揺れていた。その先に小さな住宅街が見えた。

 洗ったばかりのネズミ色の作業服のポケットから、ポロポロになったコンビニのレシートと一緒に携帯電話を取り出す。団長の横山に電話をかけた。携帯の呼び出し音を右耳で聞きながら、この状況を何と説明すればいいのかと頭を悩ませた。起きがけの団長の不機嫌な声を予想するとそれだけで憂鬱になる。厄介だ。

「・・・・・おう。」
 
「おはようございます。あのですね、今、トラックの荷台を開けたら、あのぅ、熊がいたんですけど」

「は?」

「いや、く、熊がいるんですよ。何にも繋がれていない熊が」

「は?」

「本当です。熊がいるんです。申し訳ないんですけど、現場に来てもらえませんかね?…」

 電話が切れた。柏崎はムッとするのを押さえた。運転席に戻り、ぬるくなったジンジャーエールをのどに流し込んだ。来るまでにはあと30分ぐらいかかるだろう。寝癖のままのぼさぼさの頭を掻きむしって、やって来るんだろう。無造作に助手席にあった週刊少年マンガを取った。

 カクマクマは考えた。この体の中の心地よい痛みは何だ?よくわからないが、シェリーと話しているのが楽しかった。

「へー、あたい外の世界ってどんな所か知らん。ずっとサーカス暮らしだす」

 その言葉をきいて、カクマクマは動物園から逃げ出して以来今まで見てきた外の世界のことを、シェリーに話したくなった。

「外の世界はそりゃーもう、良い所です。とにかく食べ物がおいしい。最高ですね。シャケの味がする、ギチャギチャしてるものや、魚の骨。甘ーい黄色のベタベタしたやつ。思い出しただけでも、よだれが出てきます」

「あー、それもしかして、鮭フレークとハチミツってもんじゃねーか?何度か食べた事あるし、あんた本物の鮭って食べた事あるか?うんめーよ」

「へー」
 
 意外な反応に驚きながら、カクマクマは話を続けた。

「外の世界で色んな奴と出会いまして。イヌって知ってますか?そりゃもう大袈裟な奴らで。参りましたよ」
 
「イヌ?イヌならどんな所にでもいるよー」

「そうですか・・・」

 バサッと音がしたので、振り向くと人間がこっちを見ていた。すぐにいなくなった。

 (人間か・・・)

 また扉が開いた。目が合った。また、すぐに閉まった。

 20分後に団長がやってきた。気配に気がついた柏崎は、マンガを閉じて外に出た。団長のコロンの匂いがした。40代後半のやせ男。いつもこざっぱりしているけど、寝癖はついている。奥さんはいるとかいないとか。作業服を来ている時ぐらいコロンはつけなくてもいいのに。仕事は完璧にする人だけど、人間関係に於いては完璧から程遠い。

「おい、どういう事なんだよ、シェリーが逃げたのか?」

「それが、シェリーではないみたいなんです。茶色い毛の色の熊でした」

「は?」

「茶色い熊がいるんです。とにかく中を見て下さい」
 
 団長の横山がトラックの荷台のテントを開いた。確かにシェリーの檻の側に茶色い熊がいた。テントを閉じた。

「おい、おい!」

「はい」

「お前何をした?」

「何もしていませんけど・・」

 横山はセカセカとズボンの左ポケットからセブンスターを取り出し、1本抜き取った。

「じ、自分も、訳が判らないっす。気がついたら熊がいたんで…警察に電話しますか?」

「いや」

 横山がゆっくりと煙を口と鼻から吐き出した。

「考えてもみろ。“トラックに熊がいるんで、捕獲して下さい。”なんて、サーカス団が通報するのはどう考えたっておかしいだろ?変に疑われて監査が入ったりでもしたら、その間は営業停止だぞ。あほらしい」

「でも実際に紛れ込んだのは事実ですし、このまま放って置く訳にもいかないじゃないですか?」

「それはそうなんだけどよ。あー。もう面倒くせぇなー」横山は煙草を靴でもみ消した。「取りあえず檻に入れようか。運転席のシートの後ろに棒があっただろ、持って来い」

「シェリーさん。僕は人間の言葉がわかるんですよ」団長と思われる人間がやってきたのを察して、カクマクマはそう言った。
「今から人間たちと話をして、ここで雇ってもらえるように交渉してきます。そして二人で暮らしましょう」カクマクマは荷台にかかった白いシートをめくり、外に出た。
「見ていて下さい」
「あぶねーからやんめろ!!」

 シェリーの鳴き声が聞こえて、横山は振り向いた。荷台のシートが開き、熊が出て来た。まずい。異変に気がついた柏崎が調教用の棒を横山に投げた。「健!お前はフォローに回れ」横山は獣臭を感じた。

 調教用の棒を片手に様子を窺う。危険な状況だ。サーカスで教育された熊とは違う、生粋の野生児だ。長年、サーカスで色々な動物を調教してきた横山は、過去の経験を思い出しながら、感覚を研ぎ澄ませた。
 熊が荷台から下りてくる。乾いた肉球と爪がザザザ・・・と、地面に軽く当たる音がする。熊と入れ替わるように、すぐに柏崎が荷台に乗り込み、奥にある空の檻に手を掛けた。普段は二人がけで持つ鉄の檻は、ずっしりと重かった。「えいや!」引きずるように荷台から落とした。
 檻はカクマクマのすぐ横に落ちた。熊が一瞬檻の方を振り向いた。柏崎は荷台から飛び降り、横山と向き合う形で熊を挟んだ。
 
 横山は調教用の棒で熊を威嚇した。飛び込んでくるか、そのままくるか。横山は自分の足が震えている事に気がついた。

「しー!しー!」

 人間の前に出たものの、どうすればコミュニケーションできるのか。カクマクマは、はたと気がついた。考えてみたら人間と話をした事がない。 
 目の前の人間は、今にも棒で殴り掛かってきそうな勢い。必死に敵意がない事を言いたいのだが、人間語は聞けても、話ができない。どうすればいい。マギーのこんな話を思い出した。

 (この踊りをすれば、ニンゲンは撫でてくれるよ。でもな、これは危険だから、あんまりシネー方がいいと思う。一か八かって時だな)
 
 一か八か・・・。

 横山は身構えた。1発。熊の急所は一カ所。眉間の部分だ。その部分はやわらかい。そこを思いっきり棒で突き刺したら絶命する。ミスをしたら・・・。
目の前にいる熊がしゃがんだ。来た。飛びかかる体制だ。そう思った次の瞬間、熊は地面に寝転がった。

「あ!」

 目の前にいる熊が地面に腹這いになって、両手両足をバタつかせていた。横山は棒を下げた。

「これって、ハイハイですよね」横山の隣に来た柏崎が言った。

「檻、檻だ。」

 柏崎は檻を開けた。横山が棒で熊を檻の中へ誘導した。すると誘導されるまでもなく熊は自ずから檻へ向かった。そして横山と柏崎の方を向いて、

「こ、この熊、お辞儀してるぞ」

 熊は檻の中に入った。急いで柏崎が鍵を下ろした。

 檻に入るとカクマクマは安堵の息を吐いた。一か八かの賭けが見事成功した。動物園の飼育員たちが、よくやるポーズをまねたのも功を奏したらしい。
 ゆっくりと、トラックの荷台に載せられた。これで私も立派なサーカス団の一員だ。ふと遠くの方からマギーの声が聞こえた。マギー?そう言えば!カクマクマは檻の中から返事をした。

「おーい。ここにいるぞ!マギー!!」

 (・・・・・・・ガッテン・・)

「今になって吠えてますよ。檻の中は狭いんですかね。」

「なーにじきに慣れてくるさ。それにしても、俺たちはとんでもない宝物を手に入れたかも知れねーぞ。あの熊はサーカス向きだ。俺は直感ですぐにわかった。あいつは大物になるぞ!ははははは」

 どこからか正午を告げるサイレンが聞こえた。

「もう昼か。メシ行っか」

 トラックに鍵を閉め、二人は近所の食堂へ向かった。

「おうおうおうおう!おうおうおうおう!」マギーの声が荷台の外から聞こえた。
「まだこの中か!おう!早く出やがれ。これはサーカス団の車だぞ。危ないから早く出やがれ」

「聞いてくれマギー、しばらく私はここで働く事にしたんだ」

「なんだと!!本気か!?」

 マギーに遅れて、シャムラがピコピコ尻尾を振りながらやって来た。

「マギー、あんがとう」

「シャムラ、帰るぞ。テンデ話になんねー。おい、泣いてんのか!」

「違わい!泣いてなんかないやい!なんで帰んの?ここはおいっちの家だ。帰る所なんてねー」

「まー、マギー。私はもう決めたんだ。しばらくここにいる」

「お前ら!ミーはもう知らねー!!」

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