カクマクマが乗った船の名は、3MILES号。
老朽化により所々ペンキが剥がれ、茶色の錆が見られる白い船体には青のラインが一本。
真っ直ぐに描かれている。
中級クラスのこの客船の屋根の真ん中には、鉄の棒が立ち、万国の国旗や色とりどりのライトが飾られている。

1階は客室の廊下には赤い絨毯が敷き詰められている。
2階はラウンジとレストラン、売店、そして小さな映画館などの娯楽施設。
その上の、3階は海を見渡すテラス。
テラスの後ろには、バー。
昼間は喫茶店になっている。
4階は、VIP用に設けられた広いスウィートルーム。
廊下やテラスでは、古いスピーカーからバイオリンの音がゆっくりと小さく流れていた。
1階より下に部屋は2つ。
1つは乗務員の仮眠室。
反対側のもう1つの部屋は、シーズンオフのクリスマスツリーや大型パーティ用の白いプラスチックのテーブルや椅子、使わなくなった音響機材や毛布などが、整理整頓され、眠っている物置だった。
カクマクマは、その物置のクリスマスツリーと音響機材の間、ちょうど影になって隠れている場所に座って、この船がどこかの港に停泊するのを待っていた。
することも無いのでカクマクマは時々、ボーっとツリーを眺める。
初めて見るものばかりのこの物置の中で、ツリーの緑だけが、動物園の檻から見えた景色を思い出させてくれる。
船に乗ってから丸1日が過ぎた。
動かないでいても空腹は徐々に、カクマクマを締めつけた。
空腹を忘れるために寝ようとすると、どこかから何か音が聞こえてきた。
その音は、飼育員が餌を知らせるために、檻を叩く音に似ていた。
カン、カン
・・カン、カン・・
だけど、目を開けても餌は無い。
波が船を打つ音だった。
餌の事ばかり頭に浮かぶので、また目を閉じた。
餌の備え付けの脱脂粉乳の味が、一瞬、舌を通った。
眠ろうと、また目を閉じる。
食べたり、飲んだりする自分の姿が、脳裏にはっきりと浮かぶ。
また、腹が締まる。
(もう耐えられない・・・)
カクマクマは、物置から出た。
薄暗くしてある、殺風景な壁の客室。
ベットに腰掛けた老人が、煙草に火を着けようとしていた。
なかなか着かないので、ライターを明かりで照らす。
安っぽい100円ライターの燃料は、無くなっていた。
老人の名前は花城良平。
来年で80歳。家族や近所の子供からは「良平爺さん」と呼ばれていた。
髪の毛はあるが、ほとんど白髪。
ロマンスグレーの油も枯れ果て、薄い体にYシャツ、シーサーの飾りと紐のネクタイをゆるく締めて、ねずみ色のスラックスを穿いていた。
目は白内障で、老眼鏡をしていても、視界はほとんどぼやけている。
2月に妻を亡くした良平爺さんは、鹿児島へ嫁いだ娘の家へ、葬儀のお礼も兼ねて、有り余る時間を潰すため傷心旅行をしていた。
煙草を諦めた。
部屋の窓際のテーブルの椅子に腰掛けて、冷蔵庫を開ける。
冷気が足に降り、9月の蒸し暑い夜には心地良かった。
冷蔵庫の奥がブーンと鳴る。
妻が倒れていた台所も、冷蔵庫のモーターがブーンと鳴っていた。
(そうだったな)
心が底に落ちる前に、急いで冷蔵庫を閉めた。
良平はライターを買いに出ようと、ドアを開け、廊下に出ようとした。
そこに一匹の大きな茶色の犬がいた。
カクマクマは何でも良いから、とにかく腹に何か入れたかった。
廊下は、乾かない油が黒くへばり付いて、手すりのすぐ横にある窓の外では、船に引き裂かれた海が、新しい波を作っていた。
めまいがする。
とにかく、何か食べれるものを探そう。
空腹で、警戒心は無くなっていた。
湿った階段を上り、1階の廊下に出る。
今まで嗅いだことのない真新しい匂いがした。
人間の匂いもする。
「わー大きい犬がいるねー」
振り向くと、爺さんが立っていた。
(・・こいつを食べよう・・・)
「よしよし、おいでおいで」
ウーウーと唸りながらカクマクマは爺さんの部屋に入った。