月の光を頼りに、私はこどもの国(注1)から抜け出した。
目的はただ一つ。
中城湾口の廃車置場で、釣り人が残した冷凍サンマやミミズで命を繋いだ。
全ては今日のために・・。

私が生まれたのは広島県の山中。
幼い頃に親とはぐれ、餌を求め町に出たときに捕獲され沖縄に送られた。
“こどもの国”と言う名の動物園へ。
動物園で育ったからといっても世間を何も知らないわけではない。
たしかに本来、自然の熊が知っているはずの流れる小川や木々の
せせらぎを私は知らないが、その代わりにこの檻の外から見える、彩り豊かな羽を広げる孔雀たちや気性の激しいサル達の覇権争い、
三日月を寂しげに迎え待つ狼の遠吠えを私は知っている。
無言のコンクリートが私の父であり、退屈そうに餌をやる飼育係たちが私の母親だった。
だがいつも心の底では、本当の父や母の姿、生鮭のある世界を夢みていた。
私はこのままこうして灰色の世界だけを見て生きていくのだろうか・・。
ここから抜け出して、色んな鮭を食べたい。
だが、何度叩いてもコンクリートの壁は固く、私の焦りは日増しに大きくなっていった。
脱出の日を夢見て、夜になると私は人間に見つからないようにこっそりと檻の中で体を鍛えた。
冷たい鉄格子を使い、腕の筋肉・腹筋・背筋。
もちろん昼も、遠足で来る人間の子供達の話を盗み聞いたりして、人間界の勉強をした。
私が4歳になった夏の日、遂に運命が南風に乗ってやってきた。
夕方からの暴風雨で仕事に追われた飼育係・安村の手違いで、檻に入れられずに私は一人、熊山(注2)にいた。
秒刻みで、激しくなる鉄網の外を眺めていた。その時・・・
雨影を切り裂く光と音とともに桜の木が私の方角に折れ、世界への橋が現れた。
さっきまで静かだった隣の檻のキリンやライオン達が一斉に騒ぎ出した。
「行け」「行くのよ」「急げ」「早く!!」急かされるまま私は、木を渡ろうとした。
落ちた。
雨で濡れた桜の木肌は柔らかく不安定なのだ。
焦れば焦るほど、滑って落ちる。
3度渡り、檻の外に出た頃には、額から血が流れていた。
だがそんな事は気にしていられない。
台風の混乱が収まる前にここから出なくては。
死にもの狂いで走る中、私に名前をつけてくれたあの人間。
飼育係の安村の事を思い出していた。
「かっわいいなこいつ名前あるんすか?
えぇええ、ふーん。
自分、つけてもいいすか。
いい名前があるんすけど。ええ。
カクマクマって。 自分、好きなんですよ、カクマクシャカ。
ええ。知ってます?よーし、今日からおまぁえの名前はカクマクマだ!」
カクマクマ・・・私はその名前だけを持って、どこに行くのかも判らない船の貨物室に忍び込んだ。
注1 沖縄県沖縄市にある動物園。
注2 サル山みたいなもんです。